第十三章 大正期
第一節 大正デモクラシー
(一)民本主義
大正デモクラシーとは一般に1913(大正2)年の第一次護憲運動、および1924(同13)年の第二次護憲運動に伴う一連の政治運動を指す。これは単に官僚勢力と政党勢力との対決として展開されたばかりでなく、学者や一般民衆もその過程において重要な役割を果たしており、それなりの成果も収めた。例えば、吉野作造(1878-1933)の民本主義や白樺派の人道主義、哲学者らの文化主義・人格主義などがそれであった。
民衆の登場 また、これらの成果はいずれも日露戦争後の二つの社会現象を土壌にして生じたものである。まずは民衆の登場である。日露戦争では日本が勝利したにも関わらず、賠償金の取れない講和条約に調印したことへの不満から、1905(明治38)年9月5日、東京の日比谷公園で行われた民衆の抗議活動が大規模な暴動となり、死者十数名を出した。この日比谷焼打ち事件と翌年7月の東京市電値上反対運動などに見られるように、集団的民衆運動の台頭は、日露戦争以後の新しい社会現象として注目される。
世界志向 もう一つは世界への志向である。日露戦争の勝利によって日本の国際的地位の向上がもたらされ、「列強」の一つに数えられることとなった。列強から自国の独立を守る明治初期以来の課題がもはや達成されたため、今度は世界と日本とを同一化し、普遍的な視点から国内の情勢を見据えることが期待された。
この二つの社会現象を背景に、大正デモクラシーの文化がやがて
— p.166 —
学習ポイント
- 大正デモクラシーの思想
- 大正期の庶民文化
- 大正文学の特徴
- 西田幾多郎と和辻哲郎の日本文化論
開花する。まず、民衆の意思を重視する吉野の民本主義は、自ずから普通選挙権の主張や議会主義につながっていくが、その根底に民衆の登場があるのは言うまでもない。また、これまでの政治ではしばしば「天皇親政」など日本特有の基準から考察されていたのに対して、民本主義においては「世界普遍の標準」を掲げているところに、ほかならぬ世界への志向が反映されている。
(二)人道主義と文化主義・人格主義
人道主義 大正文学における白樺派の人道主義についても同じような状況が指摘できる。武者小路実篤(1885-1976)が1918(大正7)年に宮崎県に「新しき村」を建設した。互いに助け合って生きていくという、ユートピア的農業共同体であった。ロシアの小説家トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi, 1828-1910)の人道主義からの影響も大きかったが、その「人類愛」「同胞愛」の精神は、「我々はもう世界人として生きている」(「人間の義務と其他」、1919)と武者小路自身が宣言したように、日本の国民であるとともに「世界人」でもあるという自覚に基づいていたのである。
文化主義・人格主義 哲学の分野では1919(大正8)年、桑木厳翼(1874-1946)によって「文化主義」が唱えられたが、これが民主や平和などをすべて含む概念とされている。1921(大正10)年に阿部次郎(1883-1959)が提唱した「人格主義」も、「あらゆる価値」を測定する尺度として定義されている。いずれも従来の国家至上主義や富国強兵主義を否定したもので、世界共通の文化や普遍的な人格価値を表しているのである。ここにも日露戦争後に台頭した「世界への志向」が働いていたことが分かる。
— p.167 —
第二節 市民文化の形成
(一)文化住宅
田園都市 日清・日露戦争を経て、東京は「帝都」として郊外へと膨張していった。東京近郊の農村地域は「帝都」へ流入してくる人々の住宅地となった。この近郊の宅地化は、市内と隣接町村を結ぶ鉄道の交通網が敷かれたことによって急速に進行した。いわゆる田園都市の生成である。
文化住宅 以上のように、もともと都市の住宅難から出来上がった大正期の住宅地に過ぎなかったが、緑に囲まれた生活へのあこがれを「文化」の名によって引き寄せ、「文化村」と掲げる宅地開発が進められていた。こうした大正期から郊外の良い環境の住宅地に建てられた中産市民の家を「文化住宅」と呼ぶ。
和風建築と洋風建築の要素を併せ持っており、スタイルも一定していないが、主に「中廊下式住宅」と「居間中心型住宅」との二種類に分けられる。前者では家の平面の中央を中廊下が走ること、および玄関の脇に洋風の応接間が付くことが特徴となっている。どの部屋からも他の部屋を通らずに家の中を移動でき、プライバシーの確保に便利であるが、中廊下が暗く湿りやすいのが問題になる。
大正期に入ると、住宅改良の声が起こり、居間中心型の住宅が現れる。廊下が全くなく、プライバシーこそないが、ちゃぶ台を囲む一家団欒の生活様式にふさわしい家となっている。また、小家族化が進む中、近代的な家庭事情に合っており、いかにも大正らしい住宅の改良と言える。
(二)総合雑誌
『中央公論』・『改造』 大正期の代表的な総合雑誌としては、政治・社会の評論を中心とする『中央公論』、および社会主義的な色彩を持つ『改造』が挙げられる。明治期創刊の前者はもともと創作欄を中
— p.168 —
心としていたが、1919(大正8)年に発刊された後者の刺激によって批判的な社会評論を載せる総合誌へと変貌した。両者とも知識人の読者を多く獲得した。
『文芸春秋』 一方、当初短編小説や文芸評論を中心としていた『文芸春秋』(1923年創刊)も、やがて経済・政治などにその内容を広げ、総合雑誌になっていったが、『中央公論』および『改造』のような勢いものにはなれず、大衆娯楽雑誌としての一面を残していた。また、『中央公論』および『改造』の急進的な立場と違い、マルクス主義やプロレタリア文学にはむしろ反対の傾向にあり、多くの中間層の読者を引き付けた。
(三)映画とラジオ
無声映画 大正期の大衆娯楽として無声映画は大きな役割を果たした。例えば、1923(大正11)年正月の「船頭小歌」(松竹)以来、流行歌を主題歌とする小唄映画が多くの人の共感を呼んだ。また、階級的不正を批判した「下郎」(1927、日活)や、資本主義に搾られる人間の姿を描いた「生ける人形」(1929、日活)など、いわゆる「傾向映画」が注目を集めた。ただし、このような社会批判をする映画は内務省の検閲によってカットされるところも多く、各会社はやがて方向転換をはじめることとなった。
一方、ラジオ放送は1925(大正14)年に東京・大阪・名古屋の各放送局が始まった。関東大震災(1923年9月1日)から間もない時期だったこともあって、放送によって信頼できる情報を伝えることの重要さは、広く人々に理解された。
(四)大正期の美術
日本画の分野では1907(明治40)年に文部省美術展覧会(文展)が開かれて以来、日本美術学校派の川端玉章(1842-1913)の指導を受けた平福百穂(1877-1933)・鏑木清方(1878-1972)らが活躍してい
— p.169 —
た。これに対して、横山大観は1914(大正3)年に日本美術院を再興して院展を開き、在野・反文展の立場を明確にしながら、大正・昭和の日本画をリードした。
洋画に関しては、新鋭の岸田劉生(1891-1929)は1922(大正11)年に春陽会に加入し、娘をモデルにした「麗子微笑」などの人物画を描いた。また、藤島武二(1867-1943)ら文展の一派に対抗するために、石井柏亭(1882-1958)らは1914(大正3)年に二科会を開いて日本画と浮世絵の表現を取り入れ、「現代写実主義の模範作」と称えられた。なお、竹久夢二(1884-1934)は「黒船屋」のような、つぶらな瞳と憂いの表情を持つ美人の風俗画を描き続け、広く庶民の心をとらえた。
岸田劉生「麗子微笑」/安井曾太郎「金蓉」(王秀雄『日本美術史 下冊』、国立歴史博物館、2000年)
第三節 明治末から大正期までの文学
(一)耽美派
明治末期、醜悪な真実のみを強調する自然主義への反動として、官能美の追求を第一義とする文学者たちが現れた。永井荷風と谷崎潤一郎を代表とする耽美派である。
— p.170 —
永井荷風 一時期自然主義の作品を書いていた永井荷風は、欧米の外遊から帰国すると、『あめりか物語』(1908)と『ふらんす物語』(1909)を書いて明確な反自然主義者となった。1909(明治42)年に『すみだ川』をはじめとする江戸趣味に徹した作品を発表して耽美派の代表作家となった。翌年、さらに慶応義塾の機関誌『三田文学』を創刊して自然主義の『早稲田文学』(1891年に坪内逍遥が創刊)と対抗した。
谷崎潤一郎 一方、東大文科生の雑誌『新思潮』の同人として出発した谷崎潤一郎(1886-1965)は、『刺青』(1910)で注目され、性的倒錯や女性崇拝などを特徴とする独自の美的世界を構築した。後に雑誌『スバル』に『少年』(1911)などの異色作を書いて荷風に激賞され、文壇への登場を果たした。さらに1912(明治45)年に『悪魔』を発表して「悪魔主義」(怪異や邪悪の中に美を見出そうとする傾向)と評された。
(二)白樺派
1910(明治43)年4月、自然主義や耽美派、新思潮派などが乱立する中、雑誌『白樺』が創刊された。はじめから特定の主張を持って出来上がったものではないが、同人たちがそれぞれの個性を十分に伸ばそうとしたところに共通点が見られる。すなわち、自己を生かすことを文学上、また生活上の第一義としているのである。
武者小路実篤 その同人には武者小路実篤、有島武郎(1878-1923)・志賀直哉(1883-1971)など、上層階級の者が多かった。武者小路実篤は『お目出度き人』(1910)などで出発したが、後に「新しき村」の建設によって自らの理想を実践しようとしたことは前述したとおりである。この時期の作品に『幸福者』(1919)などがある。自己の個性の完成がそのまま社会のためにも役立つ、と彼は考えている。
有島武郎 『カインの末裔』(1917)で文壇に登場した有島武郎は、『或る女』(1919)では自我の覚醒と社会の因習との対立に悩ま
— p.171 —
される女性の破滅を描いた。また、1922(大正11)年に『宣言一つ』などを書いて、北海道の農場を小作人に開放した。しかしその翌年、『或る女』のヒロインと同じように個人の理想と社会の現実との葛藤の末、自ら命を絶った。
志賀直哉 初期では父との不和を反映する小説を多く書いた志賀直哉は、後にその不和の解消を『和解』(1917)で描き、さらに『暗夜行路』(1921-37)では人間と自然との融合を目指そうとした。
以上のように、個人と社会との対立を直接に調和しようとする、やや楽天的な理想主義を特徴とするのが白樺派であった。その主張は観念的・抽象的な面が目立ち、やがて米騒動(1918)をはじめとする、階級の対立を浮き彫りにする内外の社会問題に直面し、解体せざるを得なくなった。
(三)新現実主義
耽美派と白樺派によって看過された現実を、明治期の写実主義とはまた違う知的な態度で捉え直そうとするのが新現実主義であった。主に「新思潮」から出発した新思潮派、『三田文学』、および『早稲田文学』に作品を発表した新早稲田派などが活躍した。
例えば、『今昔物語集』に題材を得た短編『鼻』(1916)を『新思潮』に発表して夏目漱石に激賞された芥川龍之介(1892-1927)が新思潮派の代表作家である。永井荷風と谷崎潤一郎の影響を受けた佐藤春夫(1892-1964)が三田派に属し、『田園の憂鬱』(1918)などで都会から逃れる現代人の姿を描いた。また、新早稲田派の葛西善蔵(1887-1928)が自然主義を受け継ぎ、『子をつれて』(1918)などで自分の貧しい生活を冷静に眺め、代表的な私小説作家となった。
— p.172 —
第四節 大正・昭和期の日本文化論
(一)西田幾多郎
「哲学」という用語そのものがphilosophyに当てられた訳語であることからも分かるように、明治30年代までの日本は専ら西欧の哲学を輸入していたが、ついに日本独自の哲学を創出するに至らなかった。しかし明治末期になると、むやみな西洋文化の摂取を疑問視するとともに、日本ならではの哲学思想を創り上げようとする動きが起こった。
『善の研究』 その最初の成果として、当時京都大学に着任して間もない西田幾多郎(1870-1945)の『善の研究』(1911)が挙げられる。本書はいわゆる「純粋経験」、すなわち理性による判断を一切排除した精神状態の追求を主旨としている。ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842-1910、アメリカの心理学者)の「意識の流れ」(stream of consciousness)など、西洋の思想に示唆を受けながら、西田は東洋の「禅」の体験によって純粋経験を捉えようとした。そして、「無」という調和的な境地にたどり着いた。
『日本文化の問題』 こうした、禅を通じた仏教的世界観は『善の研究』以降の著作にも表れている。例えば、1938(昭和13)年に発表された『日本文化の問題』では大東亜共栄圏に言及するにあたって、第一次世界大戦におけるヨーロッパ諸国の争いを、「個」と「個」との対立として捉えた。それに対して太平洋戦争における日本のアジア進出を、「世界」としての日本が「無」に徹した上で「個」としてのアジア諸国を受け入れるという、平和の現象として捉えた。時代の要請に応えたのか、晩年の西田は日本のアジア進出を、禅でいう「無」の境地に解釈しようとしたのである。
この晩年の発言をめぐって西田に対する否定的な評価も出ているが、「純粋経験」という西洋的な概念を東洋の禅の思想によって捉えるという、西田哲学の一貫した世界観とも言えよう。
— p.173 —
(二)和辻哲郎
1919(大正8)年に『古寺巡礼』を刊行したことをきっかけに、後に京都大学と東京大学に着任することになる和辻哲郎は日本文化へ関心を寄せるようになった。また、1927-28(昭和2-3)年のドイツ留学の体験が、1935(昭和10)年刊行の日本文化論『風土』の構想を生むことになった。
『風土』 本書では日本を含む東アジア地域の風土を「モンスーン型」と称した。そのうち日本の場合、夏の太平洋側では台風による大雨が、冬の日本海側では大雪がそれぞれ降るところから、日本人は激しやすいと同時に辛抱とも言え、矛盾とも言えるとされている。また、社会組織や人間関係の面では日本人の「しめ〈湿〉やかさ」が注目され、特に緊密に結ばれている日本社会を動かす原動力となっており、この点において西欧型の人間関係とは対照的であるという。そして、このしめやかな家族関係は、最終的に天皇を頂点とする一大家族として日本国家にまで収斂されていく、と締めくくられている。
このような風土論は明らかに国家主義的な傾向を帯びているが、和辻にあってはその倫理学の到達点につながるものであろう。主観的な面が目立つとは言え、観念的な西田哲学と違い、和辻の思想はより具体的で、人間性に豊かな関心を注いでいると言えよう。
(文責:黄智暉)
— p.174 —
確認してみよう
一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。
- 大正デモクラシーの成果の一つとして、吉野作造の(a.人道主義 b.民本主義 c.民主主義)が挙げられる。
- 洋画の新鋭の(a.藤島武二 b.岸田劉生 c.石井柏亭)は1922年に春陽会に加入し、娘をモデルにした「麗子微笑」などの人物画を描いた。
- 永井荷風は慶応義塾の機関紙(a.『三田文学』 b.『明星』 c.『スバル』)を創刊して自然主義の『早稲田文学』と対抗した。
- 短編小説「鼻」を『新思潮』に発表して(a.永井荷風 b.森鴎外 c.夏目漱石)に激賞された芥川龍之介が新思潮派の代表作家である。
- 和辻哲郎の『風土』では日本を含む東アジア地域の風土を(a.「砂漠型」 b.「牧場型」 c.「モンスーン型」)と称した。
二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。
- 日露戦争では日本が勝利したにも関わらず、賠償金の取れない講和条約に調印したことへの不満から、1905年9月5日に東京で起こった大規模の暴動を( )という。
- 武者小路実篤は1918年に宮崎県に( )というユートピア的な農業共同体を建設した。
- 大正期から郊外の良い環境の住宅地に建てられる中産市民の家を( )と呼ぶ。
- 階級的不正を批判した「下郎」や、資本主義に揺らぐ人間の姿を描いた「生ける人形」など、いわゆる( )映画が注目を集めた。
- ( )はつぶらな瞳と憂いの表情を持つ美人の風俗画を描き続け、広く庶民の心をとらえた。
— p.175 —
三、次の文章を読み、設問に答えなさい。
- 大正デモクラシーの成果はいずれも日露戦争後の二つの社会現象を土壌にしてはじめて出来たものであるが、それは何なのか、答えなさい。
- 大正期の総合雑誌のうち、『中央公論』と『文芸春秋』とではどう違うのか、説明しなさい。
- 白樺派の代表的な作家を二人挙げた上で、それぞれの特徴について述べなさい。
- 新現実主義の代表的な作家を二人挙げた上で、それぞれの特徴について述べなさい。
- 西田幾多郎の哲学と和辻哲郎の思想との相違について述べなさい。
参考文献
日本史研究会編『講座日本文化史』、三一書房、1971年
石田一良編『日本文化史概論』、吉川弘文館、1978年
久保田淳編『日本文学史』、おうふう、1997年
五味文彦ほか編『詳説日本史研究』、山川出版社、1998年
中澤伸弘『図解雑学日本の文化』、ナツメ社、2002年
小森陽一ほか編『近代日本の文化史』、岩波書店、2002年
大久保喬樹『日本文化論の系譜』、中央公論新社、2003年
岸俊男ほか編『週刊朝日百科日本の歴史』、朝日新聞社、2004年
遠藤嘉基、池垣武郎『注解日本文学史』、中央図書、2005年
— p.176 —